教わったことや本に書いてあることの受け売りではなく自らの体験の中で実感・納得できた原理・原則だけをまとめてみました
内容に関しては 財団法人少林寺拳法連盟 の正式な見解ではありません。 【サイト・オーナーへメールサイト・オーナーへメールする    
■ 第1部 第2話
明竜が昔所属していた支部で会報に連載していたエッセイを加筆再掲しました
■ 指導者はどこまで教えられるのか?

皆さんは月々教費を納めて少林寺拳法を教わりに行っていると思いますが、
先生が一生懸命教えてくれるけれどもなかなか技ができるようにならない。
あるいは反対に、一生懸命後輩に教えているにも関わらず、なかなか伝わらないという経験はありませんか。
そこで今回は、技を教える、はたまた技を教わるとはどういうことなのか、を考えてみたいと思います。

まず根本的なことから考えてみましょう。
技って本当に伝わる物なのでしょうか。

技を掛けるには「カン」と「コツ」が必要です。
しかしどちらも自分の中では「こんな感じ」といった言葉にしにくい感覚ではないでしょうか。
少林寺ではこの漠然とした「こんな感じ」を体感覚と呼んでいます。
ですから、一つの技はこの体感覚の組み合わせで出来ていると言えます。

もう答えは見えてしまいましたね。
そうです、技を教えることはできないのです。
それは自分の中で感じる「こんな感じ」というフィーリングを、パソコンの「コピー」「貼り付け」のように、そっくり人に伝えることはできないからです。
では、指導者にはいったい何ができるのでしょうか。

指導者にできることは、自分の感じた良いフィーリングを、自分の言葉に置き換えて相手に説明するか、
自分がフィーリングを体感した状況を再現させる条件設定ぐらいしかできません。

同様に、教わる側は結局技を掛けるコツを知るヒントしか、与えてもらえないことが分かります。
言ったことが100パーセント伝わったり、言われたとおりにやっていれば、技ができるようになると思ったら大間違いです。
「コピー」「貼り付け」が出来ない以上、最終的に技を掛けるコツは教わる側が自分で発見しないといけないといえるでしょう。
これはマニュアル万能主義の限界でもあります。

技を教わるとは、
指導者が与えてくれる様々なヒントをもとに、
自分の中で「これだァ!」という体感覚を見つけて行く作業にほかならないと言えます。

百万の言葉を投げつけても出来ない人は出来ません。
だから修行には主体性が必要なのです。

教える側は、相手が正しいフィーリングを体感できる状況を作ってあげましょう。
反対に教わる側は、指導者の与えてくれたヒントをもとに、自分の中に答えを発見するように心がけましょう。

少林寺には「半ばは自分の幸せを、半ばは他人の幸せを。」という教えがあります。
この言葉、見方によっては、お互い半分半分と捉えることも出来ます。
技を教えるとは、教える側の責任が半分と教わる側の責任が半分です。
一方的に「教えてあげよう」と思っても相手に技は伝わらないし、
「教えてもらおう」という甘えを捨てない限り、頑張っているわりにはなかなか技が出来ない、という現実から抜けられないでしょう。

少林寺の教えって奥が深いですね。

次回のテーマは「数を掛けると下手になる?」
今回の内容にも少し関連してます。