教わったことや本に書いてあることの受け売りではなく自らの体験の中で実感・納得できた原理・原則だけをまとめてみました
内容に関しては 財団法人少林寺拳法連盟 の正式な見解ではありません。 【サイト・オーナーへメールサイト・オーナーへメールする    
■ 第1部 第9話
明竜が昔所属していた支部で会報に連載していたエッセイを加筆再掲しました
■ 少林寺拳法には教え魔が多い?(その2)

久々の爆弾発言をしてしまおうかな・・・

後輩に技を指導することは良いことです。
だけど気が付いたら、他人から「あの人は教え魔だよな。」などと陰口を叩かれていたりしているかも知れませんね。
私も実はそう呼ばれてるのではないかと、ちょっぴりビビッています。

「少林寺拳法に入門しました。突き蹴りを覚えました。法形もいくつか覚え、黒帯を貰いました。段が上がるごとに知っている法形の数も増えました。
今は、練習となると新しい法形を覚えることと、後輩に法形を教えることしかしていません。
でも、実を言うと乱捕の中では法形は使えません。本当は乱捕自体ほとんど経験が無いんです。
でも今更乱捕をして後輩に殴られるのは立場無いしなあ・・・後輩に法形を教えているだけならボロも出ないし、まあいいか」
・・・てな感じで、教え魔一丁上がり。

改めて言います。後輩に技を指導することは良いことです。
しかし、間違った技ばかりを教えられることは、後輩にとってプラスな事でしょうか。

本来少林寺拳法は非常に実戦的な技術です。
なのに乱捕で上手く相手を処理できないというのは、今の自分の技にどこか足りない点、もしくは間違っている所が在るということです。
その自分の技の間違いに目をつぶったまま、ボロのでない約束事の世界の中でのみ良い格好をするというのは、
残念ながら少林寺拳士の在り方から外れているような気がします。

黒帯を締めたとたんに達人になれるものでもなし、後輩に当て身を入れられることがあっても当然ですよね。
なぜ当て身を入れられたのかを突き詰めて考えれば自分の技の中の足りない点、間違っている点が見えてくるはずです。

全体的に見て、少林寺拳法には教え魔が多いような気がします。
少林寺拳法は武道でありながら試合をしません。実力とは関係なく肩書きで上下関係が決まってしまうところがあります。
そのことがもたらした弊害でしょうか。

「教える、教えられる」という関係の中では、「教える側は全てが出来なくては、いけないのではないか」、という錯覚に陥り易いものです。
ところが「自分の技術は未完成だ」という前提に立てば、後輩に当て身を入れられてもマイナスどころか、自分の練習の課題が見つかったのだから、今より上手になるチャンスと捉えることが出来るのではないでしょうか。

ということは、お互い自分の技の足りない部分を練習の中で見つける、という練習方法に変えれば、
たとえ後輩相手でも、充分役立つ練習は出来るはずです。

少林寺拳法を単なる自己満足で終わらせないためにも、
真剣に今の練習方法を見直してみる必要があるのではないでしょうか。