技術、練習方法、教えの実践・・・ 少林寺拳法に関する研究発表の場
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■ 四段昇格考試の学科試験 (明竜)
章へジャンプ→ 金剛禅の教えについて|思想的な特徴一般の仏教との違い釈尊の正しい教え金剛禅の教え自分の取り組み将来の抱負少林寺拳法が単なる武道やスポーツでない所以について一般的なスポーツや武道とはもし少林寺が単なる武道だとしたら

明竜が98年に四段を受験した際、学科試験受けるにあたって事前にまとめた回答例です。因みに私が受けたときの出題は「金剛禅の教えについて」と「少林寺拳法が単なる武道やスポーツでない所以について」でした。

■ 金剛禅の教えについて

金剛禅の信仰の中心は、大宇宙の大霊力たるダーマです。
ダーマとはサンスクリット語のDharmaであり、通常ダルマ、古くはドハルマ又はダハーマ等と発音されていました。語義は一般に「法」と訳されていますが、インドの古い文献によれば「法則」「真理」「全宇宙を統一する力」「正義」などの意味を持つ最高、最貴の言葉として用いられていたようです。教範の中で、見ることは出来ないが存在は認識できる宇宙の根本実相としてダーマをいろいろな角度から表現しています。

因みに私はその中でも最も実感しやすいのが「因果応報の、道理を司さどる、大霊力である。」という解説です。善因善果の実践とも通じますが、せっかく貰った「生」であるから、釈尊の教えに従い、日々真剣に生きることが私の金剛禅の教義の実践です。

金剛禅とは、少林寺拳法を通した人づくりの運動であり、昭和22年に開祖宗道臣が四国多度津に興したものです。

思想的な特徴

思想的には開祖の敗戦後の体験から悟った「人、人、人、全ては人の質にある」という真理を元に、社会のあらゆる分野、あらゆる階層において、相手の立場に立って考え、かつ行動できる人間が一人でも多く育てば、一見遠回りのようであっても、世の中は必ず変わる。という観点から、まず、精神的肉体的に強い自己を確立し、ついで相手のことも考えて行動できる社会のリーダーとして青少年を中心に育てていくところに特徴があります。

一般の仏教との違い。

金剛禅では、本来の宗教の姿に戻り、偶像崇拝を必要とせず、人間一人一人がダーマの分霊を持つ、万物の霊長であることを自覚して、すべての人が「ダルマ」になることを目標に努力し修行すれば、いつか必ず現世に平和で豊かな理想の楽土を建設できるとの信念のもと、自他享楽の金剛禅運動を同士と共に展開しています。
ここが、先祖崇拝を中心に考える一般の仏教と違うところです。

釈尊の正しい教え

困ったときの神頼み的発想ではなく、人間の期待と事実が反して生まれる苦しみを、欲望を征服し、欲望を浄化させることが、悩みや苦しみを解決する唯一の方法であると教えるのが釈尊の正当仏教です。

金剛禅の教え

金剛禅は、釈尊の正当仏教の教えにしたがい、拳禅一如の修行をとおして、まず己を拠り所とするに足る自己を確立し、そして他人のために役立つ人間になろうとする、心身一如、自他共楽の新しい道です。また、アナクロニズムを排し原子力の今日に即応した古くて新しい教えでもあります。

開祖も教範の中で次のように語っています「天国や極楽は、あの世にあるものではなく、この世につくるべきものである。それは、神仏がつくるものではなく、人間が協力してつくり出さなければならないものである。人間の心の改造と平和的な手段によって地上天国を実現させようとしているのが、金剛禅の主張であり、願いなのである。」と、そしてこの「先のことではなく、今。」また「神仏ではなく、人間(自分)」という積極的な姿勢が、私が金剛禅を信仰する大きな理由であり、今の自分に大きな力を与えてくています。

自分の取り組み

開祖が、よくその著書の中で「強いだけの一匹狼をつくる気はない。勇気と行動力とを持った人間の集団を造りたいのだ。」と言われていました。
私の少林寺拳法における役割とは、職場など道場を離れたところで金剛禅の考えを実践し、共鳴してくれる仲間を増やすことによって、社会を良くしていくことだと思っています。

また、支部のなかでの自分の役割とは、現在の助教として支部運営をサポートしていくという一言につきますが、具体的には拳士会の一員として会報の編集発行をし、現役道場生だけでなく、父兄や休眠拳士にも少林寺拳法の考えと我々の活動を理解してもらったり、コミュニケーションを促進できるような紙面つくりをしています。また行事の際にはスタッフ・リーダーとして動いたり、後輩がリーダーで動くときは重要な局面でアドバイスをするように心がけています。

将来の抱負

このように少林寺拳法の修行を通して学んだことを、仕事や家庭に活かし、仕事で学んだことを拳法に活かして、日々積極的に生きていきたいと思います。
それが、少林寺拳法という宝の山を残してくれた開祖に対する唯一の恩返しになると思っています。

■ 少林寺拳法が単なる武道やスポーツでない所以について
一般的なスポーツや武道とは

武道は本来武術に精神性を加味したものでしたが、歴史的に見ても大衆化と共に競技を主体とするスポーツ化の現状にあるのが事実です。スポーツはどんなに裾のが広くても注目されるのは大会優勝者というトップ数人に限られます。もし少林寺拳法が単なるスポーツだとしたら、きっと毎年チャンピオンが生まれ時代と共にローキックやかかと落としのような流行技が生まれていたことでしょう。

少林寺の法形が時間とともにすたれないのも、攻守に分かれて立ち会うのも、技法的に見たとしても一般の競技主体のスポーツと一線を画していたからでしょう。少林寺の技術は双方攻撃の技術でなく、守者のための護身の技術です。多くの人が日常生活のうえで必要とするものであるというところが、運動競技であるスポーツやいわゆる武道と大きく違うところでしょう。

また、少林寺拳法は単に護身の技術を教える団体かというとそれも違います。開祖がよく「拳法は餌だ。」と言っていたように、この大変興味深い護身の技術を求めて集まってきた人たちを、相手や周りのことも考えて動ける人間に感化していくことが、開祖の目的でした。

あまたの少林寺の文献にあるように「勇気と慈悲心と行動力を持った多くの人間を育てること」があの世ではなく、この世に理想境を作り出せる唯一の方法だと開祖は確信されていました。そのための一つの手段として少林寺拳法は設立されました。背景の面からみても、少林寺拳法は武道と言うよりも、文字どおり宗門の行と言えるのではないでしょうか。

また、先程のべたように現在でも、勝負主義の競技主体になっていないことや、攻守に分かれて修練する護身の技術が技術の中心になっているこからも、開創当時の開祖の意志は正しく受け継がれていると言えるでしょう。

もし少林寺が単なる武道だとしたら

団体としての活動面から見ても、昨年の記念すべき50周年大会で灰谷健次郎氏脚本による「イジメ」をテーマとしたオリジナルミュージカルがありましたが、社会問題にここまで真剣に取り組む武道団体もあり得ないでしょう。
また、阪神大震災でのボランティアや、開祖デー活動の福祉施設訪問なども思想の実践と言えるのではないかと思います。

このように多方面から分析してみても、少林寺拳法はスポーツや単なる武道ではなく、宗門の行と呼ぶのがもっともふさわしいと思います。