技術、練習方法、教えの実践・・・ 少林寺拳法に関する研究発表の場
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■ 六段昇格考試の宿題 1 (明竜)
新たな六十年が、今始まる|少林寺拳法は世界を救えるか|第一の価値「異文化との共生」|第二の価値「教育」の観点での価値|第三の価値「自信の源」|価値をどう生かすか

明竜が六段を受験するにあたり提出した宿題です。
この年の特別昇格考試論文で入選したものです。

■ 少林寺拳法のこれからの社会における存在価値とその可能性
まず、我々が置かれている現代社会を俯瞰し、次にこれからの社会における少林寺拳法の役割を考えてみたい。
新たな六十年が、今始まる

第二次世界大戦が終わって六十余年が過ぎた。その間日本という国は敗戦の焦土から経済大国へと変貌し、その成長ぶりは世界の大国驚かせた。しかしここにきて日本の成長を支えてきた国内の諸制度は時代の変化に対応できず陳腐化が進み、既にその有効性を失ったとさえ言われている。

税制、社会保障などの制度疲労は深刻で、若者の労働意欲の低下を加速させ、ニート問題や引きこもり問題に拍車をかけている、また少子化による人口減少が始まらんとしているのに日本は七百兆円を越す公的債務を抱え、もはや既存の仕組みの抜本的改革無しでの対応はできないところまで来ている。

戦後の六十年で華麗な復活を遂げた日本という国が、次の六十年も同様の繁栄を維持できる保障はない。中国やインドなどの新興諸国の急速な台頭が現実のものとなってきた今、経済・文化・教育など様々な分野において国際社会での競争と連携を視野に入れた取り組みをすることが必須である。

昨今、各界の著名人や経営者の口角にイノベーションという言葉が盛んに登場するのはこうした背景があってのことである。日本という国は戦後の還暦を迎え、経済や技術だけでなく精神文化のエリアにおいてもイノベーションが求められている。今まさに次の六十年に向け一斉にイノベーションの取り組が始められた時と言える。

少林寺拳法は世界を救えるか

流行語を連呼するだけの気分的イノベーターとならぬよう最初にイノベーションの概念を明確にしておきたい。日本でイノベーションといえば「技術革新」のことと捉えられがちだが、これは一九五八年の経済白書でイノベーションが「技術革新」と訳されたことに起因している。当時の経済環境ではイノベーションがイコール「技術革新」でも全く違和感はなかった。しかし本来のイノベーションはもっと広い範囲に適用されるものである。

イノベーションの語源はラテン語のノイエ・コンビナチオン。ノイエは英語のニューの元になった言葉であり、コンビナチオンとはコンビネーションの元になった言葉。ふたつを合わせると「新・結合」。ノイエ・コンビナチオンとは「既存のものを組み合わせて新たな何かを創りだす」という意味である。

最近話題の旭山動物園は、北海道の旭川という土地にありながら年間入場者数で上野動物園を上回る実績をあげている。旭山動物園の一番の特徴は、動物を本来の生き生きとした姿で見せるところにある。「生き生きした動物の本来の姿が見たい」利用者のニーズと「動物の生態」という既存の知識を有機的に結合させることに成功した。その結果が奇跡的な観客動員数となって現れた。まさにサービス界におけるイノベーションの典型事例と言えよう。

あらゆる分野でイノベーションが芽吹きつつある今日、少林寺拳法においてイノベーションは起こり得ないのだろうか、また少林寺拳法が社会にイノベーションを起こすことは出来ないのだろうか。 国を挙げてイノベーションに取り掛かろうしている現代日本において少林寺拳法にはどのような価値があるのだろうか。

第一の価値「異文化との共生」

鎮魂行で信条が「我らは愛民愛郷の精神にのっとり・・・」に変わったのは数年前の話だが、その背景には少林寺拳法のグローバル化があったと聞いている。一方ビジネス界に目を転じても「ダイバーシティ」「オフショア」といった「グローバル化」に関連したキーワードが声高に叫ばれるようになって久しい。実際我々が普段着る服はアジア諸国で生産されたものであり、普段口にする食材は海外からの輸入品というのが現実である。これらの事実が象徴するように物理的な人やモノの出入りと同時に文化的国境の崩壊も静かにしかし急速に進行している。日本の開国作業はいまだ進行形なのである。

このような現代日本において「異文化との共生」は時代を生き抜く上でのひとつの重大なテーマとなる。まずは「異文化との共生」という観点での価値を考えてみる。ここで言う異文化とは一体何を指すのだろか。

国境や国籍の違いは当然異文化だが、地域性の違いから来る生活習慣の違いも異文化である。また、ジェネレーション・ギャップなどという言葉があるように年齢の違いも異文化の要因となりうる。他にも職業の違いも小さな異文化かもしれない。

一般的に人は異文化と遭遇した時はとまどいや恐怖を覚える。そこで大なり小なり文化の統一や排除を行う傾向がある。特に単一民族国家として独自の文化を育んできた日本ではこの傾向が強い。しかしその結果が近年の国力低下や特に若い世代に蔓延する閉塞感へと繋がったことは否定できない。大きな精神的イノベーションを伴うことになるが、違ったものを違ったまま受け入れることが、日本という国の生き残りの条件と言える。

働く会社が違う、働く業界が違う。学生もいれば、定年を迎えた人もいる。小さな異文化が混在する少林寺拳法の支部はまさに「異文化との共生」の小さなシミュレーション会場と言える。もっともこれは何も少林寺拳法に限ったことではなく、他の趣味の世界でも起こりうることではある。しかし町のヨガ教室と違うのはその裾野の広さと連帯感だ。本部合宿に行けば全国から集まった様々な人と「少林寺拳法」という共通語で話しができる。これは現代社会における大きな価値と言えるのではないだろうか。

第二の価値「教育」の観点での価値

次に視点を変えて「教育」の観点での価値を見てみよう。ゆとり教育が否定され教育課程が改められたことは記憶に新しい。ここで敢えてその是非を問うつもりはない、考えたいのはその背景である。

それ以前の教育課程に時間的余裕がなく子供の知的発育に適さないとの判断からゆとり教育に移行されたわけだが、単にカリキュラムを減らしたことは問題の根本的解決には至らなかった。そして日本がそのような教育課程の試行錯誤を繰り返している間に、インドや中国をはじめとした新興諸国が国際競争力をつけて背後に迫ってきていた。

戦後の日本は義務教育によって全体の底上げを短時間で成し遂げた。それが戦後60年の著しい成長の礎石となった。しかし取り巻く環境が激変し続ける現代日本では、決められた作業を単に早くこなすという意味だけでの生産性は通用しない。

今の日本に求められる人材、それは「答えを見つけ出す人間」ではなく、「問題を見つけ出す人間」である。どこに問題が潜んでいるのか何が問題なのかを洞察できる能力こそが、これからのリーダーに欠かすことのできない能力と言える。

少林寺拳法は「護身」というある意味究極のシチュエーションにおける対人関係のノウハウを集めたものである。そこから対人関係の原理・原則を学ぶことは可能だ。また、効率の良い指導を心がけたり支部を運営し盛り立てていくには単なる暗記式の知識だけではなく、もっと積極的に問題を見つける能力が要求される。

現代の学校教育では学べない、「問題を見つける能力」を身につけられるのも少林寺拳法の価値と言える。

第三の価値「自信の源」

最後にもうひとつ別の価値を考えてみたいと思う。好むと好まざるとに関わらず、今後「異文化との共生」が求められることは前述した通りだが、文化が違えば当然様々な軋轢が生じる。その全てが対話で解決できれば良いが、そうもいかず物理的暴力に発展するケースも増えるだろう。東京の山手線で頻発する外国人集団スリなどもそうした現象のひとつだ。彼らは包丁で容赦なく切りつけてくるという。そんな場面に遭遇したくはないが、遭遇せずに一生過ごせる確率はどんどん少なくなってきている。

また異文化との共生だけでなく、国内諸制度の破綻で人心はますます荒れ、ストーカーや振り込め詐欺を始めとした身近な犯罪は増加の一途をたどっている。我々は急増する犯罪にどう対応すべきなのか。

手っ取り早いのは自己を守る方法を持っておくことだ。普段から危険のケースをシミュレートし、対応策を考え、トレーニングしておく。別段目新しさは無いが、これがもっとも確実な方法だ。普段から疑似体験をしておくことで多少の場慣れができる。それだけで結果が大きく変わってくる。まさに少林寺拳法の護身の技術が直接的な価値となって現れる場面と言えよう。「身を護る手段を持つことで、腹の底にどことなく用意ができている。そしてまちがったことには、怒りを感じて行動できる、そういう勇気ある心と力を持った人を少林寺は育てたい」とは開祖の言葉だが、犯罪への対応ひとつとっても、少林寺拳法にはまさに自信の実行力の裏づけとしての価値がある。

価値をどう生かすか

「異文化との共生」における価値、「教育」における価値、「自信の源」としての価値を見てきたが、その価値をどう最大化していくかが次の課題である。過去の延長線上に未来が描けない現代では「未来を洞察し」「ビジョンを描き」「ビジョン実現のためのアイデア」を出し、現実で直面する問題を柔軟にクリアしていく覚悟が重要だ。

また新たな道を切り拓く時には必ず抵抗勢力が存在する。いたずらに人とぶつかる必要はないが、軋轢を恐れ、勇気をなくてはならない。「出る杭は打たれるのは常だから、よってたかって意地悪されたり圧力受けたり、嫌なことはいっぱいあるだろう。でも、自分で選び、分っていて納得ずくで受ける苦しみをくぐり抜けられたら、これ鍛えられるぞ」、これも開祖の言葉だ。開祖の意思を継ぐ細胞のひとつとして、恐れず迷わず、少林寺拳法の価値最大化に取り組んでいきたい。